学生時代からの親友である長江、熊井、湯浅の男女3人が、恒例の飲み会を開く。
毎回酒と肴のテーマを決め、ゲストを一人呼ぶ。場所は長江の部屋。メニューは、
生牡蠣×シングルモルトウイスキー「ボウモア」
砕いたチキンラーメン×ビール
チーズフォンデュ×オレゴンのシャルドネ
豚の角煮×泡盛
炒った銀杏と塩×静岡の純米酒
そば粉のパンケーキ×ブランデー「ポールジロー」
スモークサーモン×シャンパン「パイパー・エドシック」
一番惹かれた組み合わせは、バターたっぷり外がカリカリのそば粉のパンケーキとブランデーの組み合わせ。二つを口にした時のメンバーのリアクションに妄想始動。ブランデーと粉もの、バターの相性の良さはお墨付き(ブランデーケーキだってある)。 それを思うと、上記の酒と肴の組み合わせは単独メニューとして成り立っているものが多い。チーズフォンデュは白ワインでのばし、沖縄の角煮(ラフテー)は泡盛で煮る、生牡蠣にシングルモルトを垂らす・・・。
ちなみに『
もし僕らのことばがウィスキーであったなら』で、村上春樹がスコットランドのアイラ島で生牡蠣×ボウモアの組み合わせを教わったときの感想は、
「牡蠣の潮くささと、アイラ・ウィスキーのあの個性的な、海霧のような煙っぽさが、口の中でとろりと和合するのだ。」
でも、この飲み会の一番の肴は推理ごっこ。
一回きりのゲストはいわば格好のネタ元提供者で、それを肴に飲む会といった趣。
悪魔的頭脳を持つと繰り返し評される長江が疑問を提起し、得意の推理を披露する。他の2人は長江の結論に同調しゲストも納得するので、それで決定してしまう。2話3話と読み進めるうちに、3人が手ぐすねひいてゲストを待ち構える様が目に浮かんでくる(それを世間では詮索好きという)。中には自ら判断を仰ぎたいと参加する奇特なゲストまで。お酒は美味しそうだけど、ゲストに呼ばれたくないなぁ(笑)。
まず最初は、表題作にもなっている生牡蠣の話。
推理を始める流れがちょい不自然で、結論にも首を傾げてしまう。
次のチキンラーメンの話で、ますます怪訝。
人はそんな回りくどい意思表示をするものだろうか?
粉をぶちまけて咄嗟にそんなリアクションをとるだろうか?
夜とはいえ、さっと掃除機をかけられないほどボロいアパートなのか?(笑)
次はチーズフォンデュ。フォンデュに使う硬いフランスパンに「そっか、こんなふうに食べればよかったんだ」とゲストの女の子が呟いたところをすかさず食らいつく3人。彼女は義理チョコのお返しが硬いフランスパンだった件について話し−−−
う〜ん、今どきそんな、わたせせいぞうな奴っている?(笑)
3人に炊きつけられた末に、単にパンが硬かっただけだったらどうする。
次は角煮。またもや、「やっぱり角煮は柔らかいのがいちばんだな」のゲストの一言に食らいつく3人。当たり前のこと言っただけだぞ。
ナニナニ?彼女が作った角煮がいつも柔らかいのに硬かった?悪かったわね(笑)。
なぜ肉が硬かったかの推理はどうぞご自由にだが、そこから彼女の真意まで推し量るのはちと無理がないか。だいいちそんな不確かなものに将来を託すかなぁ。
それに、硬い角煮が食卓に出れば、「硬いね」か無言のどちらかだろう。
「もうダメかな」「力を合わせてがんばろう」とは決して言わんだろう。
料理をしない湯浅夏美が、もし自分が硬い角煮を出されたらやっぱり愛情が足りないのだと思う・・・だなんて、どの口で言うか(笑)。
銀杏の話は、単純なことをあれこれかき回して基本に戻ったわけで・・・。
そば粉のパンケーキは、そば粉アレルギーつながりで海老アレルギーの話に。
唇が腫れていたことで浮気を疑われていた婚約者は3人の推理でもっと重い判決を下される。・・・って、それだけの材料で決め付けていいんか(笑)。その決定は人の人生を左右しかねないんだぞ。
海老じゃなくて、単に唇が山芋にかぶれただけかもしれないのに。
面白ければ一気に読めてしまう類の本なのに、少し間が空いた。
はたして推理されたそれらは本当に真実といえるのだろうか?
当事者がいないところであれこれ心中を探り、決定付けてるのってどうなんでしょ。会ったことも無いのに。 自己満足や憶測の域を出ていないのでは・・・。
小説的にはそれが正解なのだろうけど、読んでいる方としては事実が明らかにされて、「えっそうなの」というより「んなわけあるかい」と思ってしまうのでありました。
ようやく最後まで読んで、あぁなるほど、と。
作者は最終章のアイデアをまず考え付き、そこから話を肉漬けされたんですね、きっと。著者の小説を読むのは初めてで、本格推理の方だということを失念していました。推理を始めるのが不自然だの心理がどうだのと持ち出すこと自体、お門違いだったようで(笑)。
- 2008/04/16(水)
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ノーカントリー。"No Country For Old Men"が縮まり、なんのこっちゃな邦題。
カート・ヴォネガットの「国のない男」"A Man without a Country" がなんとなく脳裏をよぎったが、 老人が母国の現状を嘆いている点でそう遠くもないか。

真ん中だけど助演(笑)。持って行き方によって誰が主役になってもおかしくない。
舞台はベトナム戦争(1959−1975)から5年後の1980年(最後に某人物の墓石に刻まれた没年がこれ)。麻薬密売の大金を横領した男とそれを追う殺し屋、さらにそれを追う保安官という筋書きに、三つ巴の戦い、しかも比重は後者二人にあるとばかり思っていた。予想外だったのは、ネコババ男も異常にタフだったこと。
モスがベトナム戦争帰還兵であったことから、数々の危機を逃れ、後半は水を得た魚のごとく反撃に出る。彼が求めていたのは大金(安泰)というより、むしろ危険(刺激)そのものだったのではないかと思わずにいられない。一方殺し屋もベトナム戦争体験者と思われ、かくして戦争後遺症患者同士の壮絶な死闘が繰り広げられる。
奇しくも同じ境遇に陥る二人。特殊訓練を受けている者ならではの同じ行動が笑える。二人の対比も面白いが、遭遇する若者たちの対比もまた面白い。
モス役のジョシュ・ブローリンは先日観た『アメリカン・ギャングスター』で金をたかる姑息な警官を演じていて、今回も取るに足らないチンケな男ぐらいに思っていたら、意外にも応援したくなるタイプ。ギャング同士の抗争で一人生き残った虫の息の男にとどめを刺すのではなく(そう思った)、家から水を持ってきてあげるといった人情味も見せ、その妻カーラ(ケリー・マクドナルド)も好感が持てる。思いがけないシガーとの互角の戦いに、いつの間にか彼の立ち位置が主役級に置き換わっており、奇跡の生還に一筋の希望の光まで見てしまう。(しかしその期待通りにもっていけば、これまでのハリウッド映画のどれかと同じなっていたともいえる)
そんな濃ゆい二人であるが、本作の主人公は老保安官ベル。それがトミーリー様とくれば、執拗な追跡劇をつい想像してしまうが、ベルには「逃亡者」「追跡者」のような執念はない。「この国は人に厳しい」と、宇宙人ジョーンズさながらコーヒー片手に世を嘆くばかり。ようやく、邦題から消されてしまった"Old Men"に思い至る。

珍しく愛想笑いの瞬間 (直後、プシュッ!)
映画は、殺し屋のアントン・シガーがいきなり逮捕されるところから始まる。たいした罪ではないのだろう、警察官に緊張感はない。彼はボンベを持った変な男でしかなく、それが住居侵入や殺人のマルチアイテムだということを知らない。保安官ベルも現場検証で武器を特定できず、首を傾げる。(この映画以降、ボンベ所持者は職務質問必至だな)
プロの殺し屋たるもの表立って派手な動きをしないものだが、シガーは違う。車が必要ならその都度調達(強奪)、万引きするならボヤ騒ぎと、痕跡残しまくり。ターゲット以外も簡単に殺し、依頼人にすら手を掛け、制御不能で暴走し始めた殺人マシーンのごとし。(それで仕事の依頼が来るのかが謎。自分で仕事を取るコミュニケーション力は無さそう)
一度指令がインプットされれば、完了するまで止まらない。快楽を感じるでもなく淡々と殺人をこなしていく様子は、ターミネーターや『バトルロワイヤル』の桐山(脳障害で感情が欠損)を見ているようで、嫌悪感すら沸かない(怖可笑しい)。
ただ、彼なりのルールが存在するゆえ、無差別殺人鬼と違って次の手が予測不可能なだけに終始固唾を飲まずにはいられない。

店主を値踏みする目つきがたまらない
GS店に立ち寄ったシガーは、世間話を投げ掛けてきた店主に、唐突に彼の生い立ちや人生に満足してるかを問い、「おまえがこれまでのコイントスで失った一番大きなものは何だ」と訊ねる。質問の真意が分からない店主からの質問は一切許さず、唐突に「表か裏か。賭けろ」(”Heads or tails? Call it”)と迫る。会話は一方通行、これぞディスコミュニケーション。状況が呑み込めない店主は、シガーがカウンターに置いた菓子の包み紙が生き物のように動く様(シュールだ)をじっと見つめて思案に暮れる。シガーの気迫に気圧され、とうとう店主は「買ったら何がもらえるか」と話に乗じると、返った答えが、"
Everything." (全てだ)。
つまり負ければ、Everythingがナッシングなわけで(汗)。
しかし店主はそんな不条理な真意にまで気付いた様子はないし、気付けば賭けられるはずもなく。一方観客は、これが生死を賭けたものだと明示されたわけでもないのに当然そうであると了解して、固唾を呑んで見守る。結果的にシガーからラッキーコインだから大事にとっておけと言われるが、頭の変な客にもらったコインとしていつしかレジに投入されることだろう。(このコインを持っているラッキーな人がほぼ1/2の確率でいらっしゃるわけだ)
この命懸けのコイントスは後にも登場する。殺しを決めかねる時(特に必要性が無い時)にコイン任せにするのが彼のルール。使われるコインが、シガーがあえて店主に語ったように22年前の1958年製、つまりベトナム戦争が始まる直前のものであることからも、シガーの作り上げたルールが戦争体験による死生観に関係しているのではないだろうか。戦争こそ一寸先が裏か表か分からないのだから。

シガーのユーモアの無さが観ている方にはユーモアとして映る。無表情のままモーテルの部屋の前で受信機音に合わせて車を微調整する生真面目な仕草が妙に可笑しい。それに極度の潔癖症。殺し屋だけど靴底の血や返り血は嫌、重傷を負ってもカーペットを汚さないようシート張りするマメさ。道中で見せる傍若無人ぶりと神経質さのアンバランスがステキ。
融通がきかず、必要性より必然性。自ら作ったルールは自らの意志で持っても変えられない(強迫性障害か)。コイントスだけが殺人を止める自分なりの理由付けになり得るのだ。「自分の意志で決めるのよ」と、モス妻カーラに痛いところを突かれるが、そう簡単に変えられるものでもない。
そんな運命決定論者も、当然ながら運命には逆らえないという皮肉。
ベトナム戦争と暗殺者の危機から逃れ瀕死の状態から蘇ったモスの末路も然り。
凄腕の暗殺者が偶発的な事故に遭わないとは限らない。
突然の悲劇は殺される側だけでなく殺す側にも平等に訪れる。
(ラブコメの主人公だって無敵のヒーローだって交通事故に遭うときは遭うのだ)
ただ、バックミラーでシガーがチラ見する自転車の少年たちに、欄干の鳥を重ね合わせてしまったが、一体あの熱い視線はなんだったのだろう・・・。
もしや、少年愛?日常に潜む暴力とシニカルなブラックユーモアの組み合わせといえばクローネンバーグ。不穏な空気がたちこめる一触即発の緊張感と脱力感は『
ヒストリー・オブ・バイオレンス』に似ているが、あちらが画面いっぱいに充満する悪に不快感を伴うのに対して、『ノーカントリー』(コーエン兄弟の作品全て)はどこまでも無機的。クローネンバーグの描く血(ほとんど肉片)は生暖かく、コーエン兄弟の血はドライな感じ。
コーエン兄弟は今作でアカデミー賞監督賞を受賞したが、主要部門は功績が重要視されがちだから(前年のスコセッシなんか特に)、製作順序によってどの作品で獲っていてもおかしくない。個人的には『赤ちゃん泥棒』が傑作だと思うけれど(笑)
『海を飛ぶ夢』での回想シーンで、髪型でこうも変わるのかと驚かせられたハビエル・バルデム、今回も髪型の重要性を切実に体現してくれた。今回は珍しく趣味いいと思わせたペネロペ姐さん
(ひょっとして、あげまん?)、アントンシガー☆コスプレ三昧なのが羨ましすぎ。

涎モノの両手に漢!
- 2008/04/04(金)
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『
乳と卵』 川上 未映子
『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ 村上春樹
『断食芸人』(白水uブックス) フランツ カフカ 池内 紀
『
治療島』 セバスチャン・フィツェック 赤根 洋子
『他人事』 平山 夢明
『
タルト・タタンの夢』 近藤 史恵
『狐闇』 北森 鴻
『メイン・ディッシュ』 北森 鴻
『旅行者の朝食』 米原 万里


『スパイス完全ガイド』 Jill Norman 長野 ゆう
『スパイスの人類史』 Andrew Dalby 樋口 幸子
『記憶のスパイス』 高山 なおみ 齋藤 圭吾
『カレーの法則―スパイスマジックでつくる』 水野 仁輔
『枝元なほみのスパイスがおいしい!』 枝元 なほみ
『はじめまして。「かえる食堂」です』 松本 朱希子
『洋風料理私のルール』 内田 真美
『朝ごはんの愉しみ』 内田 真美
『毎日つかう漆のうつわ』 赤木 明登

- 2008/03/30(日)
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単行本の装丁に惹かれながらも、いつものように文藝春秋で。
![文藝春秋 2008年 03月号 [雑誌]](http://images-jp.amazon.com/images/P/B00133VRSW.09.TZZZZZZZ.jpg)
乳と卵川上 未映子
先入観が邪魔になるので選評は後回し、
後からの楽しみに。
今回は受賞者インタビューだけでも面白い。
芥川賞受賞直後の週刊文春2008.1.31号に早速インタビュー記事が掲載されていて、笑ったのが「ダ・ヴィンチ」編集長の
「いきなり『未映子と申します。一度お会いください。お昼ごはん食べましょう』と電話が来て、びっくりして腰が引けた。アブない人かと思ったので、『昼は食べない主義なんです』と一度電話を切りました」
このエピソードは今回の文藝春秋のインタビューにも引用されていた。その文藝春秋の巻頭の受賞者インタビューのタイトルが、「家に本が一冊もなかった」。それが今や芥川賞作家!というインパクト効果を狙ってのものだろう。北新地のホステス時代の話(毎月1日に紅白饅頭や蘭の花を持ってお客さんまわり、弟の大学の学費を出すため・・・)、本屋や歯科助手のアルバイト経験など。歯や髪に興味があって顕微鏡で観察していたとのことで、あの『
わたくし率イン歯ー、または世界』の歯フェチ女は意外に身近なところに(笑)。なるほど『
先端で、さすわさされるわそらええわ』にも髪の毛の話があった。
そして『乳と卵』にもちらりと髪のことが出てくる。
銭湯帰りに「わたし」こと夏ちゃんが無意識に髪を触るのを巻子が指摘するシーン。夏ちゃん(おそらく夏子)は、心の中ではあらゆる突っ込みを入れつつも二人の母娘をそっと見守る黒子的役割で、強烈な巻子に対し控えめな感じだが、ここでのみ夏ちゃん主体として描写される。
「ガタガタのくせのあるこの一本を指先で調べて、抜いて触るのが好きで」
話の流れとは全く関係ないくだりだが(笑)、これを読んで、あぁ私と同じだ、と。
夏ちゃん、というか著者自身に親近感が倍増してしまった。
想像するに、未映子女史がカツラを愛用していたことからも、彼女自身が一筋縄ではいかない髪質なんではなかろうか。ガタガタの髪を一本一本調べる癖があるのでは。(私はこの確認作業が日課となっている)
『乳と卵』の登場人物は、わたし(夏っちゃん)、姉の巻子、その娘の緑子。
今回も登場人物の職業がホステスと著者の職務経験とダブりつつも、巻子の勤め先は高級クラブではなく安っぽいスナック。女手一つで育てている娘の緑子は、ここしばらく言葉を話さずペン書きで会話をしている。その母娘が数日間大阪から東京の「わたし」の家に泊りにやってくる。巻子の豊胸手術の下見のために。上京した時の巻子のスナックのようなチープさがリアルで切ない(脱いだらもっと切ない)。
題名の『乳と卵』の「乳」は、巻子の豊胸手術から派生する銭湯での乳観察や乳論議など一貫して登場するキーワードであり、緑子の苦悩の元でもある。また「卵」は卵子であり、これもまた緑子の出生や大人への漠然とした不安に絡めつつ、ラストで言葉の代わりに使われる鶏の卵にも掛けられている。
夏ちゃんが緑子と辞書でいろんな言葉を調べるシーン。
心のもやもやを言葉で表現できない緑子がはっとして、ペンで語る。
<もしかして、言葉って、じしょでこうやって調べてったら、じしょん中をえんえんにぐるぐるするんちゃうの> (中略)
<ぜんぶ入ってることやの?イミが?> (中略)
<じゃ、言葉のなかには、言葉でせつめいできひんもんは、ないの>
心で思うこととそれを言葉で伝えることには深い溝がある。でも言葉にしなければ伝わらない。溢れる思いがあればあるほど、言葉が追いつかない。
自分を産んで胸がしぼんでしまった母が今さら豊胸手術するという、母の苦しみに何もしてあげられないもどかしさと、そこまでして胸を大きくしたい女というものが理解できない緑子。
言葉を話さなくなった娘からちゃんとした理由を問えずにいる巻子。
その二人の架け橋となるような言葉がみつからない「わたし」。
ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん、ほいでこれをここで見ているわたしにも言葉が足りん
言葉が出てきんでもどかしい時、その言葉にならぬ感情が溢れると人間は体が動く。そこに卵があったなら・・・・・というラスト。ようやく排卵・・・じゃないや産卵して苦しみから開放された感じ。いろいろ問題を抱えているけどこの家族は大丈夫、根底にはたくさんの愛が溢れている。
暗くなりがちなテーマながら文章は軽快で笑える箇所もいくつか。いつもの○○部という言い回しや徐々に言葉を短縮してビートアップしていくテンポは彼女ならでは。豊胸手術について不自然になりがちな点を延々語る巻子に、「わたし」がはぁと頷きながら心の中で突っ込む、
ばれる、ばれない、誰に。
って確かに(笑)
そのまま、過去にこれと似た会話をたどって「わたし」の回想に突入。
胸を大きくしたいという女子と、それは男のためだと批判する女子の言葉のバトル。ああ言えばこう言うで男根精神に魔よけ説まで登場(笑)。文章も畳み掛け、胸大きく女子→胸派女子、胸女子、冷っと女子→冷り女子、と省略化でスピードに拍車をかける。自分の価値観を押し付ける冷っと女子、少なくとも彼女は胸にコンプレックスはなく、他人の事情や心情を慮る想像力もない。胸大きく女子の”化粧”で形勢逆転、やけっぱちの逃げ切り勝ちに思わず拍手。
最後に楽しみに取っておいた選評を。
「饒舌に語りながら無駄口は叩いていない」と評した山田詠美と「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは、私には不快でただ聞き苦しい」と評した石原慎太郎。
やはり石原慎太郎は受け付けなかったか(笑)。もはや風物詩化してしまった感。
どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。前回の作品の主題の歯と同じだ。(中略)この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。
どこでもあり得ないということをあれだけ巻子が説明しとったやんけ(笑)。
乳房のメタファって、そんな冷っと女子みたいな。
新東京銀行設立時も、「将来慙愧することはあり得まい」と思ってたんだろうなぁ。
- 2008/03/27(木)
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クライマックスに近い堀田イトの活躍が序盤で早々と登場した時はどんな展開になるのかと思ったが、意外に原作に忠実だった。鹿に乗った堀田イトを実写で拝めた。
原作を未読の人は1話目で逃げ出すのではないか?自分が未読だったら果たして面白いと思えたか?と自問しながら、最後まで観続けた一番の理由。それは、
鹿のエンディングがツボだったから

1話目で早々に鹿化した玉木宏より、その直後に流れた鹿の群れに目が釘付け。
鹿の神々しさと壮大な音楽(佐橋俊彦)に涙が溢れた(本当です)。
毎週エンディングになるとテレビの前に正座でスタンバイ。
馬ではなくて、鹿のあのような勇姿は貴重だった。ビバ鹿!
ここで、ドラマが始まる前に
思っていた件について、統括してみます。
挙げていたのは、
1.よくまぁ、これをドラマ化しようと思ったものだ
2.さてはホルモーを映画化しようといういう魂胆か
3.玉木宏の鹿化はかなりツボである
4.綾瀬はるかは誰の役をするのか
5.奈良公園の鹿にポッキーを与える困った輩が続出するのではないか
結果は以下のとおり。
1については先に述べたように、最後までその疑念は継続した。
2については、とうとう現実のものとなった。
しかも、私はそのホルモー映画化を
モリミーのブログで知った(笑)。
3、被り物をしなくても玉木宏の顔は十分鹿に見えた。
4の疑問は鑑賞前に解決しており、藤原君の女性化ということだった。それによって「まさか二人の間に色恋沙汰が」「同僚が綾瀬はるかだと、マドンナの存在が薄れないか?」という新たな疑問が生じていたわけだが、果たしてその通りであった。
そして、一番懸念していた5のポッキー問題について、
ポッキー餌付けについては、すでにそういった観光客がいることは想像に難くなく、ドラマ化した日にはますます拍車をかけること間違いない。対処法として、この部分をカットするか、ドラマの最後に「鹿にポッキーを与えないでください」と入れるか。
と書いたが、結果は後者だった。しゃべる鹿の好物であるポッキーのポの字も無く、ラストではご褒美(餞別)に彼が嫌いなはずの鹿せんべいをあげるのである。テレビでポッキー餌付けをやれば本と比較にならないほど真似する輩が続出するだろうから、当然の成り行きともいえる。
原作と違っていたのは、本来鹿について話そうとしても話せない呪縛がドラマにはなかった。ただし、話せても最初は信じてもらえないのだが(鹿に話しかける綾瀬はるかのキャラは、やはり「ホタルノヒカリ」の系統を踏襲していた)。
リチャードがネズミの遣いだと知るきっかけとなる、鹿のアナログ加減(デジタル非対応)のくだりもなかった。
そして、藤原くんのかりんとうは湿気てなかった。
翻弄されキャラが板についた玉木宏。
天然キャラを確立した綾瀬はるか。
そして、最近めっきり変キャラづいている佐々木蔵之助。
今クールで他に見ていた「斉藤さん」、水木と二日続きの蔵之助鑑賞となった。
戦う真野若葉(ミムラ)との掛け合いが絶妙、近年のベスト夫婦賞をあげたい。
思えば、昨年末の「椿三十郎」でも、押入れ侍がツボだった。

- 2008/03/24(月)
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本屋で平積みされていたら否が応でも目を惹く。
青い熊のぬぐいぐるみで顔を隠した少女に、「治療島」というタイトル。
不穏度数120%
治療島セバスチャン・フィツェック 赤根 洋子訳
読み始めてしばらくして気付く。
青い熊だと思っていたのは、猫だった(笑)
名前は"ネポムク"という。
失踪した少女ヨーズィが大事にしていたぬいぐるみ。
これがこの小説のミステリー・・・というわけでは全くない。
ここで改めて表紙をじっと見る。よく見ると、なんとも不思議な構図だ。
少女はぬいぐるみを抱きしめているわけではない。
ぬいぐるみで顔を隠しているにしては、手が不自然。
両手で見えない棒を握っているような・・・そう、この少女には風にはためく旗がしっくりくる。その旗を消し、ぬいぐるみで少女の顔を隠したみたいなアイコラ風。
少女とぬいぐるみは同時空間に存在していない・・・?
このカバーイラストは、中島恵可氏によるもの。
水彩画のタッチに記憶があると思ったら、トマス・H・クックだった。
クック作品は翻訳者がころころ変わるけれど、表紙は一貫して中島氏だったはず。
ヨーズィの手のポーズの意味についてぜひ聞いてみたいところ。







クックの本は、『緋色の記憶』 『夏草の記憶』はまだしも、それ以降、どんな内容だったか題名と内容がごちゃ混ぜになる。
『死の記憶』『夜の記憶』ともなると、どっちを読んだか本屋でしばし悩んだものだ。
死と
夜の字も紛らわしく、結果、こんなことに・・・

私の記憶の方が心配

なお、このイラストも中島恵可氏。
付けっぱなしだった帯をはがしてみて、新たな発見に驚いた。
帯に隠れていた少年の顔が・・・・・めっちゃホラーやん(笑)。
『石のささやき』の少年の顔もだが、人物の顔が写真のようにリアルなのだ。
その中島氏、昨年ちょっとした盗作騒動があった。
読売新聞社が5月28日付朝刊に掲載した連載小説「声をたずねて、君に」の挿絵が、月刊誌「ダ・ヴィンチ」2月号に掲載されていた写真に酷似していたことが分かり、同社は「著作権侵害の疑いが強い」として1日付朝刊でおわび文を載せ、制作したイラストレーター中島恵可氏の挿絵の使用を同日から取りやめた。 同社によると、5月28日の挿絵に対して「Jazztronik」のユニット名で活動するアーティスト野崎良太氏の宣伝用写真に酷似しているとの指摘が29日、同氏が所属するレコード会社ポニーキャニオンから読売新聞社にあった。 同社の調査に対し中島氏は雑誌に掲載された写真の無断利用と、ほかにも写真などをトレースして制作した挿絵があることを認め、謝罪したという。 (2007/6/1 共同通信)
さらに、
読売新聞朝刊に連載中の小説「声をたずねて、君に」の挿絵を担当したイラストレーター中島恵可(けいか)氏(51)=高知県在住=が他人の写真を無断で利用していた問題で、同社は2日、さらに35点の挿絵に著作権侵害の疑いがあるとの調査結果を発表した。 読売新聞社によると、同氏が新たに無断利用を認めた挿絵は06年8月30日付〜今年5月26日付の35点。高知新聞に掲載された32点と、読売新聞の3点の写真に酷似しており、高知新聞掲載のうち13点が共同通信社、5点が時事通信社、2点が主婦と生活社からそれぞれ配信されていた。各社に対し読売新聞社は2日までに謝罪した。同社は中島氏本人から事情を聴いた結果をもとに調査をしていた。
中島氏は同社を通じ、「小説の内容にできるだけ即した絵を描きたいと考える中で、時間の制約もあり、いけないことと知りながら、新聞に載った写真を無断で使用してしまいました」との談話を出した。同氏は6月1日付から挿絵の担当を外れている。 (2007/7/2 朝日新聞)
中島氏は普段から新聞などに掲載された写真を切り抜いておいて、必要に応じてトレースなどに利用していたとのこと。
クック本表紙のリアルな人物がトレースだとして・・・・引用元は大丈夫なのかな?
では、『治療島』の少女は?少女の手のポーズは???
と、カバーだけでもミステリーな『治療島』の内容について。
原題はDie Therapie、「島」が付いたのは邦題オリジナル。実際にパルクム島での出来事が半分を占めて綴られており、事前に与えるインパクトと、読んだ後もなるほどと思えるこの邦題がなかなかいい。
少女の失踪というと、どうしても背景に陰惨なものを連想させる(クックのような)。
重くて読み進めにくいのかと思ったら意外にサクサクと、2時間ほどで読み終えた。章の構成が「真実が明らかになる五日前」から1日ごとにカウントダウンされるので、「真実が明らかになった日」まで区切れなかったというか(笑)。
まず少女の父親が精神科医であり、自称統合失調症のアンナが登場し、ミュンヒハウゼン症候群なども引用され、一体誰が精神を病んでいるのか・・・それによって事件の見方も二転三転する。
統合失調症については、近しい人が発症したことで多少知っている。脳内の神経伝達物質(ドーパミン)の異常などにより、現実と非現実(妄想や幻覚)の区別がつかなくなる。多くの人にはなんでもないことに怯え、悩み、恐怖を味わう。脳で受け取ったものが唯一その人にとっての現実なのだから、ありふれた日常もサスペンスフルになってしまう。
だから、統合失調症を根幹に持ってくると、いくらでもミステリ小説や映画はできてしまう。それを使うのがルール違反とは思わないし、実際に多くの人に発生する精神疾患をどう扱うかは著者の手腕だ。そういえば、クックの「石のささやき」も統合失調症の話だった。
『治療島』の著者はテレビ・ラジオのディレクター、放送作家だそうだ。だからなのか、なんとも映画的なラストを迎える。重くて暗い作品だと思って読んでいたら意外にエンターテイメントだった、みたいな(笑)。そして実際に映画化されるのだ。
結末を知ってパラパラッと読み返してみたが、伏線はたくさん張られていて齟齬もない。というか、ああいうオチだと嘘も本当というか、嘘が嘘にならないわけで・・・。
内面と現実がごっちゃになる映画はいろいろあるが(「マシニスト」「オープンユアアイズ」(バニラスカイ)、デヴィッド・リンチ全般w)、なぜだか「水曜日に抱かれる女」を思い出してしまった。
訳者あとがきにも映画化に触れられており、どちらかというとハリウッド映画的で訳しながらトム・クルーズとニコール・キッドマンを連想した、と書かれていた。しかもキッドマンはアンナ役だそうだ。冷戦の末に離婚した二人の関係から考えると、夫婦役の方が似合っているような。それにラストに登場する妻イザベルはキッドマンでしょう(笑)。でも、妻イザベルはそんなヒドイ女だろうか?
- 2008/03/17(月)
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予告以上は期待できないだろうと臨んだジャンパー。
はたして、予想を全く裏切らなかったダグ・リーマン(笑)。
そういや、『Mr. & Mrs. スミス』も純粋に予告の方が面白かったっけ。
せめて笑いがあればなぁ。

映画の冒頭、ジャングルでジャンパー狩りをするパラディン。『クロスファイア』(宮部みゆき著)に登場する秘密組織ガーディアンのようでもあり、彼らはもっとダーティ。正義の名の下に魔女狩りを楽しむ残忍さが滲み出ている。相変わらず役を選ばないサミュエル・L・ジャクソンの、罠に掛かったジャンパーをいたぶる時の目がなんともサディスティック。
しかし、しょせんは普通の人間。いくら高圧電流装置を持っていようとジャンプ・スカーという空間の裂け目から追跡できようと、飛行機や電車で移動する人間がジャンパーに敵うとは思えん。一体パラディンのメンバーは世界中に何人いるというのか。
これまた宮部みゆきの『龍は眠る』にはテレポート能力を持った少年が登場するが、テレポートに体力を消耗するため緊急時のみ行使する。
一方、『ジャンパー』のデヴィッド君は、日光浴しにスフィンクス、ナンパしにロンドン、ビッグウェーブを求めて海をハシゴ・・・と地球規模でジャンプし放題。
さらには、リモコンを取る時、冷蔵庫を開ける時、車に乗り込む時など、ミニマムにも活用。体力消耗どころかメタボは必至。

また、ある日突然超人的な能力を手にした少年ピーターは、犯罪に立ち向かい、火事から人を救出するスパーダーマンとなる。
デヴィッドもジャンパーマンになる選択肢があるにはあった。人や物も一緒に移動できるジャンパーにとって救出活動はお茶の子さいさいである。しかし、デヴィッドは動かない。自分の能力はあくまでも自分のために。TVで遭難や火災のニュースが流れてもアニメに変える。無関心というより、わざと目を背けるかのように。意味ありげに2度もそんなニュースが流れると、ひょっとして善行に目覚めたりする伏線?と思わせ、結局最後まで変わらない(笑)。助けられる力を持つ者としての後ろめたさを暗示したのか、単に彼の人となりを強調したのか・・・まさか続編への伏線じゃ(笑)。
そんなデヴィッドを責めるつもりは毛頭ない。
私だって突然家なし財なしでジャンパーになったら、どっこいどっこいの勝負だろう。
レストランでご飯を食べ終えてジャンプ、試着室でジャンプ、映画館の客席にジャンプ、夜な夜なホテルのスィートルームにジャンプ(食い逃げ・万引き・無銭宿泊)・・・・と、銀行強盗までせずともなんとか生きていける。大半を南の島で過ごし、もちろん写真を入手して好きな俳優の部屋にもジャンプ!これって、子供の頃に「ドラえもんの『どこでもドア』があったら、あんなことこんなこと♪」と考えてたことと大差ない。デヴィッドのやっていることも、どこでもドアで氷山に行ってかき氷三昧するのび太と同じだ。そういう意味では、正義に目覚めたりせず銀行強盗や遊びに能力を費やす主人公は等身大キャラともいえる。ミュータントに能力コントロールを教えるプロフェッサーXの必要性を再確認させる映画でもある。
ところで、ジャンパーといえども生身の人間、事故に遭えば死にます。
ジャンプ先でいきなり車に轢かれることは往々に考えられます。
というか、パラディンに捕らえられる確率より高いでしょう。死ぬ確率も。
実際デヴィッドは不用意に交通量の多い街中にテレポートして車に轢かれそうになっている。どうも23歳にしては思慮が足りなくないか。
しかも最愛の彼女に危険が迫っているという時に、東京でカーレース遊びに夢中になって時間を忘れるってどうなの(笑)。15歳で成長が止まってるんじゃ・・・。
で、グリフィンは結局どうなったのでしょうか。
高圧電流に磔のまま置き去りにされたら、ジャンプ抑止以前に死ぬよ。
命の恩人に、この仕打ち。さすがは自己中デヴィッド。

私的には、主人公よりグリフィン@ジェイミー・ベルの方が断然タイプです。
- 2008/03/14(金)
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